色彩を持たない男とオオカミ少年の巡礼 2

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「エレン。こっちに来い」
「はい」
「ん」
「…………?」
「撫でてやる」

ソファの上で手を広げてやると、半獣のオオカミ少年は大きな尻尾を振りながら、素直に俺の胸のあたりに頭を埋めた。
ここ一週間ほどで、この半獣は驚くほどに俺に懐いた。
最初は少し触るだけでもビクビクしていたが、一日三回飯をやるようになってから四日目あたりで、完全に俺を「飯をくれる人」と認識したんだと思う。それからは色々と早かった。
今では素直に身体を撫でさせて、夜もぐるぐると喉を鳴らしながら隣で眠る。
(……しかし……本当にどうなってやがんだ。この身体は……)
オオカミというよりはキツネのように大きく尖った耳と、ふかふかの尻尾。肉食動物のような鋭い牙は唇を閉じても見えている。あと、よく見れば爪も人間のものとは大きく違った。野生の動物と同じように、硬く、長く尖っている。これで引っかかれたら、肉が抉られるくらいじゃすまないだろう。
エレンという半獣の男は、普通の人間のような姿をしている時と、こうやって半分くらい獣になっている時の半々だった。
尻尾と耳を隠せば、見た目は普通の人間と同じだ。他に肉体的に違うのは目の色で、普段は深い森のようなグリーンだが、興奮すると眩しいほどの金色になる。
生まれた時から白と黒の色しか判別できない俺が、どうしてだかこいつの目の区別はついた。
一体どうしてなのか、俺にはそれが一番の謎だった。

「……お前、昨日風呂入ってねえだろ。獣くせえ」
「だって、リヴァイさんがいなかったから」
「一人でも入れっつってんだろ……今からシャワー浴びてこい」
「ええ……い、いやです……もともと身体が濡れるのとか好きじゃないんです」
「そのあとにしっかり乾かせばいいだろうが。入れ」
「……リヴァイさんが一緒に入ってくれるなら、入ります」
「…………」
尻尾と耳がぺたんとしおれて、緑色の目が寂しそうに俺の目を覗き込む。きゅーん、とイヌらしい小さな鳴き声が喉から聞こえた。
「……仕方ねえな。用意しろ」
「はいっ」
しおれていた尻尾がぴんっと上がって、すぐにぱたぱたと振られる。エレンはそのまま立ち上がって、自分の服を全部脱いでから風呂場に走った。

おそらく、一番最初に風呂に入れた時に、一緒だったのがまずかった。
水は嫌だが、身体や頭を洗われるのは好きらしい。気持ちいいということに気づいたんだろう。
黒にしか見えないエレンの髪の毛を泡立てながら、両端から生える耳を触った。
「それ、くすぐったいです。リヴァイさん」
「感覚あるのか?」
「ありますよ、当たり前じゃないですか」
「まあ……そりゃそうか」
ばしゃっと泡を流してから、今度は身体を洗ってやる。身体は、イヌみたいな尻尾と耳が生えている以外は普通の人間と同じだ。若い人間の男。やっぱり、見た目はまだ少年に見える。
「両手上げて、こっち向け」
「あ……次、オレもやりましょうか? これすごいい気持ちいいですよ」
「……いい。間違ってその爪で引っかかれたくねえ……」
「えっ……ひっかかないですよ、多分……」
自分の身体も流してから、小さなバスタブに湯を張って、その中に二人で腰掛ける。
格好は、こいつの足の間に俺が座るというように、密着せざるを得なくなる。ちょうどこいつが俺の椅子になるような感じだ。
同じ男でも、おそらく一回り以上も若い、ましてや半分動物のようなこいつに特に、嫌悪感は沸かない。むしろペットと一緒に風呂に入っているようで、悪くはなかった。
男二人で入るにはバスは小さく、張ったばかりの湯がざあざあと外に流れた。
「来月の水代が高くつきそうだ……」
「水ですか? 金がかかるんですか?」
「この辺じゃ何でもかかるんだよ……水も、食うものも、この場所にいるだけでも金がかかりやがる。生きにくい世界だ……」
「ふうん……」
ぴちゃん、と天井から落ちてくる水滴に目をしかめる。すぐ後ろにある肩に後頭部を預けて、ふう、と熱い息を吐いた。
これ以上、東の人間から搾取してどうしようってんだ……まだ格差整理も終わってない状態で東西の均等さを保とうとしたって、差は開く一方だ。
住民たちの鬱憤だって溜まってくる。暴動が起こるのだって、きっと時間の問題だ。
「……お前は……きっとそういうのとは無縁な所にいたんだろうな。まあそれが、いいのか悪いのかはわからねえが……」
「そういうのって、なんですか?」
「……いや、何でもねえ。熱くなってきたな。そろそろ上がるか……。、ッ!」
バスの縁に手をかけて上がろうとした時に、何か生温かいものが首のあたりを舐め上げた。
何か、じゃない。こいつの舌だ。
「……ッてめえ、何しやがる」
「え、なんか汗が……」
「俺は獣じゃねえんだよ。なんでもかんでも舐めるな」
ざわざわと鳥肌が立ったのを収めてから、舐められた部分を湯で流して風呂を出た。

ブオー、と壊れそうなドライヤーを使って、エレンの髪の毛を乾かす。風を当てている間も、こいつは気持ち良さそうに目を閉じて、大きな耳と尻尾ぴくぴく震わせていた。
初めは全身の毛を逆立てて威嚇していたが、これも二日にして慣れた。多分、順応性はっけっこうある奴なんだろう。
「……今度、お前に会いたいって奴を連れてくる。一応女でクソみたいにうるせえ奴だが、信頼できる奴だ」
「えっ? なんですか?」
「俺の知り合いの前で、いい子にできるか」
「? できます」
「……わかってねえだろ、お前……」
さらさらの髪の毛は、指で梳いていると気持ちがよかった。
頭を撫でてやると、エレンは決まって俺の手に額をすりつけて喉を鳴らした。



翌日は、予定外の客がやってきた。
たまたま近くに寄ったから会わないか、と連絡をくれたのは、昔から世話になっている友人のエルヴィンだった。

「やあ、リヴァイ。元気にしているか」
「まあ……ぼちぼちだ。入るか」
「ああ。邪魔するよ。そういえば、お前がペットを飼ったという話を……」
軽く握手を交わして、エルヴィンが部屋に上がろうとした瞬間。ガタンッ、という音が後ろから鳴って、同時に何かを威嚇するような唸り声が聞こえた。
振り返れば、エレンが金色の目をして全身の毛を逆立てていた。
「……リヴァイさん。誰ですか、その男」
「エレン」
「誰ですか。そいつ、家にいれるんですか」
「エレン……唸るのをやめろ。昔の仕事仲間で、俺の友人だ」
「本当ですか?」
肉食獣のような目で、エレンがエルヴィンの顔を睨みつける。耳と尻尾は閉まっているものの、普段は穏やかな森のような色の目が、ぎらぎらと金色に光っている。
「いい子にしろって言ってただろうが……」
息を吐いて近づいて、そっと右手で喉をさする。そうするとエレンはようやく牙を仕舞って、オレの手のひらに頬を擦り付けて目を瞑った。
「……悪いな、エルヴィン。見た通りの駄犬だ」
「なるほど……お前がペットを飼うなど珍しいと思ったが、こういうわけか」
エルヴィンは困ったように微笑んで、でかい図体を屈めて部屋に入った。

相変わらずエレンはエルヴィンに対しての警戒は解かず、人間の姿のままで俺の近くに丸まっている。
何度か鼻先を弾いて「唸るなら部屋に戻ってろ」と言い聞かせたが、どうにも落ち着かないらしく、隙を見てはエルヴィンの方を睨んでいる。
「おい……邪魔だ。向こう行ってろ」
「いやです」
「構わないよ、リヴァイ。徐々に私にも慣れてくれていったら嬉しいんだが……」
「クソ、お前、あとで覚えてろよ」
俺の隣で尻尾を丸めて座り込むエレンは、わざと聞こえてないふりをして鼻先を鳴らした。
「ああ、そうだ。今月の支給物資だ。何か役に立つものがあればいいんだが」
「悪いな、いつも……」
「もともとお前が貰うべきものだ。礼を言われることはないよ」
「……西の様子はどうだ」
「相変わらずだな……特に変わった様子はない。一時期は東から来た人間たちの差別運動があったが、それも今は落ち着いている」
「……どうせ、騒いでるのは東の連中だけだろ。西の奴らの生活は基本的には変わっていないんだ」
「まあ……そうだな……」
エルヴィンは、もともとベルリンの壁が崩壊する前から西側にいた人間だ。壁撤廃の運動に参加し、今でも東西格差を無くそうと翻弄している政治家でもある。大胆な政策ばかりを掲げてばかりいるので、あちこちから変わり者扱いされてはいるが、熱烈な支持者が多く、政府も一目置いている。恐らくそれは厄介者としての注目ではあると思うが、俺が信頼している数少ない政府の人間であり、友人の一人だ。

難しい話に飽きてきたのか、そのうちにエレンは俺の膝のあたりに顔を埋めて、くうくうと寝息を立てて寝てしまった。
思わず息を吐いて、呆れるように喉元を撫でる。
「……本当に動物と同じだな……本能に忠実すぎるだろ」
「……見た所は普通の少年に見えるが、どうなんだ」
「気が抜けるとイヌみたいな耳と尻尾が出てくる。いや、イヌっていうか……オオカミだな。基本的な常識や知識なんかも持ってねえ。ここの近くの路地裏に落ちてたんだが、今まで一体どうやって生きてたんだか……」
「……半獣……キメラか?」
「獣と人間の異種混血なんて、聞いたことねえぞ。そもそも遺伝子的に可能性なのか」
「一応、同じ哺乳類ではあるがな……」
そう言って、エルヴィンは顎のあたりに手を置いて少し考えるような仕草をした。
「……戦時中、死の天使、そう呼ばれていた医師を知っているか」
「……死の天使……ヨーゼフ・メンゲレのことか」
「ああ。……そういえば、お前は知っていて当然か。……人体実験をしていたという噂は?」
「直接の面識はねえがな……おそらく事実だ。話を聞いているだけでも、胸糞の悪い奴だった」
ヨーゼフ・メンゲレ。
今でも名前を聞くだけで背筋が冷たくなる。
優越人種、超人を自ら「作り上げる」ことに取り憑かれ、子供……特に双子に異常なほどの興味を持ち、メスを持っては彼らを「私の可愛いモルモット」と呼びながら切り刻む、医者とは程遠い狂った男だった。
生きたままの人体解剖や、双子の背中を切り開き人工的なシャム双生児を作ったり、人体を切り刻んではつなぎ合わせる滅茶苦茶な人体改造を行ったりと、凡そ常人には考えられないようなことを繰り返していた。
最初から狂った男だったのか、それとも途中から狂気に取り憑かれたのかはわからない。
あの頃は、誰もが狂わなきゃいきていけないような時代だった。
「政権の解体後に、施設も解体されたと聞く。当時の人体実験の名残が、この世代まで影響しているという話を聞いたことが……」
「……こいつも、その名残だと? そう言いてえのか」
「あくまで憶測だよ。ただ、この憶測だと時系列が成り立たない。あれからもう五十年以上が経っているし、彼はどう見ても十代の少年だ……この少年の外見と実年齢が合っていれば、と仮定すればの話だが」
「…………」
エルヴィンの話を聞きながら、眠っているエレンの頭を撫でて、唇を結ぶ。人間でもない、獣でもない中途半端なキメラ。いや、もしこれが異種混血ではなく、人工的に作られたものだとしたら。遺伝子操作でないものだったら。
(……ヨーゼフ・メンゲレの人体実験……話には聞いていたが……)
このオオカミ少年は、これから一体どうしたらいいのか。
考えることの先行きの暗さに、息を吐くことしかできなかった。


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