色彩を持たない男とオオカミ少年の巡礼 1

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――ブロックの隅で、死にかけたイヌみたいに転がっている人間を見つけた。

時は、WW2(第二次世界大戦)終戦後、ベルリンの壁崩壊直後。
欧州で第三位の軍事力と強靭な兵を持ったドイツ軍は、多額の借金と負の遺産を背負って大敗した。
敗因は当時の同盟国であるとか、英露二つの戦争に同時期に入ってしまったこと、戦線を広げすぎたこと、さまざま言われてはいるが、どれが直接の原因であるかは議論が割れる。もとより、戦争の原因をひとつに絞れという方が無理なことだ。当時のドイツは全てが悪い方へと傾いていた。
歴史は、この国に味方しなかった。
その後、首都ベルリンはアメリカの資本主義を通してきた西ドイツと、ソ連の社会主義を押し通す東ドイツに分断される。冷戦に突入した米露の関係は、そのまま国を巻き込む代理戦争に発展した。

頭の中で、今さっきまでディベートしていた奴らとの会話を思い出しながら、真っ白に白む息を吐いた。

その後、社会主義を貫いてきた他国が次々とこれを放棄、東欧革命の流れを受けて冷戦は終結し、その後は市民の力によって、世界であまりにも有名な壁となった「ベルリンの壁」は崩壊する。
これにより、四十年に亘り分断されていたドイツは、長い時間を経て再び統合されることとなった。

――これが、今の俺たちの住む世界だ。
(……再……『統一』な。いったいどこがだ。これの)

比較的欧州の中では治安のいいドイツとはいえ、首都ベルリンは壁崩壊後から西と東の連中が入り混じる混沌のような状態になっている。
もともと資本主義と社会主義の経済観念が違うんだ。壁が崩壊して東西統一といったところで、うまくやれる筈がない。
人間っていうのは、愚かだと思う。いつの時代も。
自分の主義主張を推し通して、それが叶わなければ傷つけ、排除したがる。自分と違うものを徹底的に嫌う。根本は同じだと気付きながら。
(獣の方が、よっぽど素直で信頼できる)
小さく息を吐いてから、石畳の煉瓦の上を、まだ汚れのついていない革靴で歩いた。
その時だ。
視界の端に、ボロ雑巾みたいになって転がっている人間が入った。
その姿は、薄汚れた汚い犬のように見えた。

「……なんだ? お前」
みたところ、まだガキだ。
ストリートチルドレンか。けれど、この辺りでは見かけたことのない奴だ。
服は薄汚れてボロボロになっているものの、暴力を振られたような形跡はない。そうしたら、ただの行き倒れかもしれない。
しゃがんで、前髪を引っつかんで顔をあげてみると、意外にも綺麗な顔をした子供だった。
年の頃は十七、十八か、もっと下か。どちらにしても、裏ぶれた路上に転がっているようなタイプの人間じゃない。
きっちりと嵌められたシャツのボタンやベルトをみると輪姦されたわけでもないんだろうが、それも時間の問題のような気がする。これから暗くなれば、ここは更に物騒になる。
「……おい、お前。こんな所で伸びてたら変態共に犯されて売られるぞ」
「…………」
「……一応、忠告はしたからな。死にたくなけれりゃ、せめて明るい所で寝ろ」
反応のない男にそう言って立ち去ろうとした時に、何かが足首のあたりをがしっと掴んだ。
目線を落とすと、今声を掛けた男の腕だった。
「……なんだ。意識あったのか」
「……はら……」
「……あ?」
「……腹、減りました……飯……」
言ったと同時に、そいつはまたがっくりと気を失った。
まだ幼い、子どもみたいな若い腕。それを振りほどいてここを去るには、あまりにも夢見が悪くなりそうなものだった。
「…………」
ちっ、と舌打ちをして、男の体を肩に担ぎ上げた。
このまま放っておいたら、後々まで嫌な気分になりそうだ……。
薄暗い路地を歩きながら息を吐いて、身体を再度担ぎ直す。身長は結構ありそうなもんなのに、身体はやけに軽い。
(……最近の若い奴ってこうなのか……いや、栄養失調か。東西が統一したとはいえ、まだまだ物資が不足してやがる……)
もともとソ連の社会主義を推していた東ドイツは、資本主義の西と違って圧倒的に貧しかった。
再統一とは言われているが、実質的には東ドイツが西ドイツに編入した、と言った方が正しい。一部では、「東ドイツは西ドイツに買い取られた」と揶揄する人間もいる。もともとの経済格差がある状態で人間だけが混ざってしまったのだから、貧富の差や差別が生まれるのは当然だ。
豊かな西と、厳しく貧しい東。
社会主義の優等生と言われた東ドイツは、蓋を開けてみれば世界経済から大きな遅れを取る劣等生だった。
(資本主義の豚どもめ……自分たちが肥えるよりも、まずはこういう所を何とかしろよ)
こんなだから、こいつみたいに道端で行き倒れてるようなガキが出るんだ。
薄汚いブロックを踏みしめながら、そう遠くない自分の家に戻った。



家に入ったと同時に、背負っている生ごみみたいな身体を風呂場の中に放り投げた。
衰弱はしているだが、まずはこの臭い身体をどうにかしないと部屋にも入れたくない。
腕を捲ってから服を全部ひん剥いて、湯を張りながら身体をバスタブの中に座らせた。
泡立ちの悪い石鹸を肌に擦り付けて、そのままごしごしと磨いていく。長く伸びた手足はひょろっとしていたけど、案外痩せすぎという訳ではなさそうだった。
人間を洗うのなんて、初めてだ。
意識がなく、力の入っていない身体は、当たり前だがちっとも協力的ではない。洗いづらいし、重い。自分も水浸しになりながらシャワーで泡を洗い流して、汚れを落とす。顔に水をかけて擦っていると、男の目元が少し動いた。
「……う……」
「……起きたか」
「い、痛え……しみる……」
「……我慢しろよ。こうしてやってるだけでも有難く思え」
「…………?」
目が合うなり、男の目が一瞬で輝くような金色に変わった。
掴んでいる腕にざわっと鳥肌が立ち、尖った犬歯が剥き出しになる。
――なんだ、このガキ。
男はまるで手負いの獣みたいな目と呼吸で、俺に向かって威嚇した。
「……だ、だれだ、あんた」
「……リヴァイだ。お前が飯っつって俺の足を離さなかったから、こうして家に連れてきてる。汚え身体で部屋ん中いれたくねえからな」
「……飯、くれるのか?」
「飯」という言葉が出たとたん、金の目は今度は静かな緑色へと変わった。同時に、肌が粟立つ程の威嚇も消える。
……変わったガキだ。そう思いながら立ち上がって、シャワーノズルをヘッドに掛けた。
「これが終わったらな。気がついたんなら、後は自分でやれ。隅々まで磨いてこいよ」
「あっ……、あの」
「替えの服は出たところに置いておく。泡がついたままで着たら承知しねえからな」
そう言って風呂場を出て、自分の濡れた頭を薄っぺらいタオルで掻き混ぜた。
着ているものもほぼ濡れてしまっていたので、狭い部屋に戻ってから新しいシャツとボトムに着替える。すると、不思議なものがタオルと自分の肌に、いくつもこびりついていた。
「……なんだこりゃ」
それは、短い灰色の毛のかたまりだった。
まるで、でかい大型犬の抜け毛のような。



「おい、身体しっかり拭いてこい。頭も拭け」
「飯……」
「頭を拭けっつってんだろ……貸せ」
バスルームから出てきた男からタオルを奪い、強引に髪と顔を拭く。用意していた服さえ着ていなかったので、「妙なもんを見せるな」と怒鳴って洗ったばかりの服を投げつけた。
「あの、飯!」
「うるせえな、待ってろよ」
ちっ、と舌打ちしてから、今しがた作ってやったものを皿に掬う。
芋を蒸して牛乳と一緒に潰したものと、茹でた野菜と豆。あと、干した肉を塩茹でにしたもの。
粗末な食事だが、もともと食料が不足しているこっちでは、これでも豪勢なほうだ。
男は大きな目で俺の手元と目を交互に見て、音が出るくらいに喉を鳴らした。半開きになった口からは涎まで垂れていて、まるで「待て」をされている犬みたいに見える。
「食え。こぼしたらぶん殴るぞ」
そう言ってテーブルにプレートを置いたと同時に、そいつはそれを掴み取って部屋の隅まで走り、ものすごい勢いでがつがつと食い始めた。四つん這いで。これには、流石に面食らった。
「汚ったねえ食い方だな……席につけよ。本当に犬か、てめえは」
カップを持ったまま近寄って、腕を伸ばす。
その途端、男は俺をぎらっと睨んで、皿を自分の方に引き寄せた。
フーフーと言う荒い呼吸が、静かな部屋に響く。威嚇の仕方は、そのまま野生の獣のようだった。
「……誰も取りゃしねえよ。それよりも、態度がクソ気に食わねえな……誰がその飯出してやってると思ってんだ? ああ?」
持っているカップを、ダン! とテーブルに叩きつけて、男を見下ろす。四つん這いになった男は明らかにビクッと身体を強張らせて、俺の姿をおどおどと見上げた。
「誰がその飯出してやったんだって、聞いてんだよ」
「…………っ」
「おい。聞こえなかったか」
「あ……あんたです……」
「わかってんじゃねえか。だったらその態度はねえだろう?」
目を丸くしたまま身体を縮こませる男のそばにしゃがみ込んで、前髪を掴んで上げさせる。大きな目は不安そうに揺れながら、俺の目をじっと覗き込んでいた。
「まずは席につけ。それで、フォークを使え。あとな、飯を食う前はいただきます、食い終わったらごちそうさま、だ。わかったか」
「は……はい……」
「わかりゃいい。皿持って椅子に座れ」
「はい……あの、い、いただきます」
「ああ」
自分も椅子について、半分まで飲んでいた薄いコーヒーを啜る。
いったいなんなんだ、このガキは……最低限のマナーも教えられるような環境下にいなかったのか。
(……としたら、やっぱりストリートチルドレンか。こんなでかくなてってもまだ)
椅子に座った男が、ぷるぷるとナイフとフォークを持って、ブロックになっている肉を切ろうとしている。が、切れるわけがない。ナイフが逆だ。
「う……うう、うううう〜〜……!」
「……おい、逆だ、逆。教えてやるからちょっと待……」
再度カップを置いて、椅子を立って近寄ろうとした、その時。
男の目から涙がぼろぼろ出てきたと思ったら、突如、大きな耳と尻尾と、風呂場で見たような鋭い犬歯が唇の間から生えてきた。
瞳は更に輝きを増したような金色に、唸り声は獣のように。
その姿はまさに、人間と獣が半分ずつ混じったような半獣だった。
(……キメラ(異種混血)……?)
思わず、目を見張った。
「……お前、人間じゃないのか」
「……っこ……、これ、食べたいです……! 食べたいです、こんなもんじゃ食えません!」
そう言って、男はワオーン、とまるで狼の遠吠えみたいな声を出して泣き出した。



男の名前は、エレンというそうだった。
年齢は不明。出身も、国籍も。
その姿はなんなのか、どうしてあそこに落ちていたのか、とにかくすべてにおいて口を噤んでしまうので、今はそれ以上の追及はできなかった。

「フカフカだな、おい……」
「……オレのこの姿見ても、怖がらないんですね」
「バカ言え……どこが怖いんだ。そのふざけた着ぐるみみたいな格好が」
「はあ……」
足を折り畳んで小さくなっているエレンの尻尾を触りながら、頬で感触を確かめる。
毛も、皮膚も本物だ。しっかり身体から生えている。おそらくは変形しているでかい耳も同じだろう。
しかし、風呂場で見た時には、こんなものはなかったと思ったが……。
「あの……オレ、ここにいてもいいんですか」
「まあ……別に、いたきゃいればいい。部屋を散らかさなきゃな」
「……どうしてですか? 見ず知らずで、こんなオレに……」
「……顔が」
「……はい?」
「気に入ったからだ。あと、その目だな……俺に飼われてもいいってんなら、好きにしとけ」
そう、自分が着せた服の胸元を引っ張って言うと、エレンの緑色の瞳が大きくなった。
どうして自分がそんなことを言ったのかはわからない。なぜ今、こんな状況になっているのかも。
生まれつきに色盲で、色彩を持たない俺の世界で、なぜだかこいつの瞳だけに色がついていた。

「……森ってのは、お前の目みたいな色なんだろ」
生まれて初めて見た「色」は、深い静かな緑色と、燃えるような金色だった。
それはまさに、自分がイメージしていたもの、そのままだった。


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