夜中、誰かのぐすぐす泣く声で目が覚めた。
しかも部屋の中じゃない。外だ。
起き上がって、すぐに隣を確認する。一緒に眠っていたはずの人がいない。……とすれば、外から聞こえるあの泣き声は。
上着をひっかけて、パジャマのままで外に出た。
「……リヴァイさん?」
「…………ッ!」
思った通り、部屋からそう遠くない井戸のそばで、リヴァイさんが小さくうずくまって泣いていた。
足元には木でできた桶があって、それに水を張って何かを洗っているようだった。そしてズボンを履いていなかった。ズボンどころか、パンツもはいてない。お尻が丸見えだ。
なにやってんですか、と慌てて駆け寄って、着ていた上着をかけてあげた。
リヴァイさんは座り込んだままオレを見上げて、赤くなった鼻をずずっと鳴らした。
「……便所に間に合わなくて……」
「……また巨人の夢見たんですか?」
オレもしゃがみこんで、目を合わせる。
リヴァイさんはぶるぶると唇を震わせてからそれを結んで、オレから目を反らせて頷いた。
人類最強にして、人類で最強にでかいものが怖い人。
少し調べてみたら、ちゃんと「巨像恐怖症」という名前があるらしい。別名、メガロフォビア。あと、ルックアップフォビアといって、見上げる程大きいものに対する恐怖症というものもあるそうだ。
巨人討伐の兵団の兵士長は、この弱みを必死で隠しながら日々を生き抜いている人だった。
お尻丸出しで桶でパジャマのズボンとパンツを洗う上司の手を取って、オレのパジャマで濡れた手を拭かせた。
「貸してください。オレが洗います」
「……いい。汚えから触んな」
「汚くないですよ。手、真っ赤じゃないですか。洗濯はオレの方が得意なんです」
「…………」
自分が貸した上着のボタンを閉めさせて、じゃぶじゃぶとタライの中の下着とズボンを洗う。リヴァイさんはその間、オレの背中に寄りかかって、ひっくひっくと声を殺して泣いていた。
別に、泣くことでもないのに。
怖い夢を見て寝小便するなんて、オレだってやる。まして、この人はいつもあんなでかい巨人を目の前にして戦ってるんだ。仲間の死もたくさん見てきてるだろうし、夢見だって悪くなるに決まってる。
綺麗な水で何度かすすいで、下着とズボンを二回に分けてぎゅっと絞る。ぱんっ、と広げてから持ちやすいように畳んで、「終わりましたよ」と背中に貼り付いているリヴァイさんに声をかけた。
「戻りましょう。風もあるし、朝には乾きますよ」
「…………」
しゃがんだまま頷く上司の目元を撫でて、手を引いて一緒に立ち上がる。
少し裾の長い上着から見える白い生足は、まだ小さく震えていた。ちなみに今の時点でノーパンだ。この人、どうやって部屋まで戻ろうと思ってたんだろう。着替えも持たずにこんなところで下半身すっぽんぽんにんなって。濡れたパンツとズボンをまた履くつもりだったんだろうか。
自分のパジャマのズボンをするっと脱いで、丁寧に畳んでから両手で渡した。
「オレのズボン貸してあげます。どうぞ」
「……人が脱いだやつは着たくない」
「オレが脱いだパンツよりはよくないですか? こんな、下半身全裸で廊下歩いてる時にペトラさんとかに会ったら、セクハラで団長に訴えられますよ」
「…………」
「それで、ずっとハンジさんに露出狂リヴァイとか、下半身ブラブラリヴァイってからかわれますよ」
多分、ペトラさんは喜ぶと思うけど。
思ったけれど、絶対言わない。
兵長は赤くなった目元を擦って小さく唇を尖らせてから、しぶしぶといった顔でオレのズボンを履いた。丈が長くて少し引きずってしまっていたので、そこはオレが折ってあげた。
帰りは、リヴァイさんはノーパンにオレのズボン、オレはパジャマにパンツ一丁といった格好で手をつないで部屋に戻った。反対側の手には、今洗ったばかりの、リヴァイさんのパンツとズボンを持って。
これも見られたらきっと妙な疑いをかけられそうだけど、多分オレが「これだから十五歳は」って言われれば済んで終わると思う。
大人の人に囲まれた状況での十五歳って便利だなって、最近思う。
最近、リヴァイさんとオレは同じベッドで眠っている。
リヴァイさんいわく、巨人に慣れるためにまずはオレから頑張っているらしい。
けど、いつ何時オレが隣で巨人化するかということに、いつも怯えながらブルブルしてる。人類最強の全身貧乏ゆすりは、ブルブルでベッド自体がきしむほどだ。
マゾなんだろうか、とも思うけど、でもこういうことをしてまでも弱点を克服しようとする姿は、本当にすごいと思うし、尊敬する。
オレの嫌いなもの……ミカサの小言。
あれを克服するために、毎日毎晩、常にミカサに耳元で小言を言われるなんて、きっと半日でワーッてなる。多分ビンタする。リヴァイさんはえらいと思う。寝小便をするくらいに怖いはずなのに、オレを側に置いてくれてる。
ごそ、と寝返りを打って、小刻みに震えているリヴァイさんのうなじにそっと触れた。
「あの……」
「ひょあッ! ほぅッ! なんだクソ野郎ッ!」
「なっ、なんですか今の悲鳴……!」
「う、う、う、うるせえっ! なんだ、何か用か」
「……っ……っ」
「なに笑ってる……!」
「す、すみません、……ご……ごめんなさい、ツボ、入っちゃって……」
ひょあほうってなんだよ。
ベッドの隅で身体を折って笑いを堪えたけど、だめだった。引き笑いが止まらなくて、なんか涙まで出てきた。
リヴァイさんはぎりぎりと奥歯を噛みながら、何度もオレの身体を殴ったけど、それでも笑いは止まらなかった。
「く……くそっ、馬鹿にしやがって……」
「してないですよ、してないです」
ある程度収まって、またぶり返して、というのを何度か繰り返した後に、ぷりぷり怒って背中を向けてしまったリヴァイさんにまた手を伸ばした。
「あの、ちょっと抱きしめてもいいですか」
「……巨人化しねえか」
「たぶん……」
違うところが巨人化しそうですが、とはもちろん言えない。
素直に抱きしめさせてくれる小さな肩先に鼻を埋めて、匂いを嗅いだ。
この人にとってオレは、一体どういう存在なんだろう。恐怖の対象であり、唯一弱みを見せてしまった人間であり、部下であり、守るべき人類の一人であり……。
オレにとって、リヴァイさんはもう唯一の存在になってしまった。
まだオレの力じゃこの人を守ることもできないけど、何か力になってあげられないかな……。
そう思いながら温かい身体を抱きしめていたら、二秒で意識を手放していた。
結局、リヴァイさんはその日も寝小便をした。
身体を折り畳んで、両膝に顔を埋めてしくしく泣くリヴァイさんの隣で、オレは濡れたシーツを引き剥がしてから、布団を屋上の物干し台まで持っていった。
「あら、エレン。……もしかして、おねしょ?」
屋上にはペトラさんがいて、洗ったばかりのシーツを何枚も干していた。
まだ朝も早いのに。リヴァイ班の人って、本当に働き者だ。濡れた布団を長い物干し台に引っかけてから、自分の頬を掻いて向き直った。
「すいません、昨日怖い夢見ちゃって……恥ずかしいから誰にも言わないでもらえませんか」
「ふふ、いいわよ」
「ありがとうございます」
ペトラさんが笑う。「午後には乾くわよ」と言って絞ったシーツを広げるペトラさんに、「オレも手伝います」と言って両端を持った。
「ありがとう」
「いえ……」
「ねえ、エレン。私も、ここに入ってから何度かしちゃったことあるわ。そんなに恥ずかしいことじゃないから、大丈夫よ」
「……寝小便ですか? ペトラさんがですか?」
「うん」
「意外です」
「他のメンバーだってそうよ。命をかけてやってることだもの……誰だって怖いわよ」
そう言ってから、ペトラさんは大きなシーツを晴れた青い空いっぱいに広げた。
もし、自分の尊敬する上司が、実は巨人に怯えて毎日毎晩泣いていると知ったら、班の人たちはどう思うんだろう。
みんなリヴァイ兵長のことが大好きだから、きっと命をかけてでも守ろうとするに違いない。
優しい班の人たちは、もしかしたら兵長が前線に出ないよう、自分たちでなんとかしようとするかもしれない。リヴァイさんが願うように、芋を掘るための畑を用意して、そうして農夫として隠居できるように、必死で働きかけるかもしれない。
でも、そうしたら、リヴァイさんが前線に出なければ、この人たちはきっと死ぬ。
多分、リヴァイさんはそれが一番怖い。
だから誰にも見せられないんだ。みんなの優しさを知ってるだけに。
強くて優しい、泣き虫の上司のことを考えて、何かできることはないだろうかと胸のあたりをぎゅっと押さえた。
その翌日は、班の皆で街の外れの調査に出掛けた。
森の奥深くにある小さな集落で、以前巨人が入り込んで来た時に、一番に壊滅された所だ。今回はその手がかりとなるものがないかどうかを確認する作業だった。
リヴァイさんは班を三つに分けて、慎重に調査を進めるようにみんなに言った。
オレは、リヴァイさんと二人で進む班だ。リヴァイさんの後ろに付きながら、辺りを警戒しながら前に進む。夜のあんな姿を知っていても、どれだけ巨人に怯えているということがわかっていても、やっぱりリヴァイさんは「兵士長」で、小さな背中は逞しく、後ろにいるだけで安心できるような人だった。
(……でも、今も怖いんだろうな。二人の時くらい、オレが……)
そう思ってリヴァイさんの隣まで走ろうとした時に、後ろから衝撃波のような風が背中を押し飛ばした。
思わずバランスを崩して、その場に転がる。なんだ、と思って振り返ると、自分の身体よりも大きな手が、オレの身体を掴もうとものすごい早さで振り上げられていた。
「……ッ巨人!?」
瞬間、一気に全身の血が泡立った。
身体を捻って間一髪で攻撃を避けて、迎撃の態勢を整えようとブレードに手を掛ける。演習で何度もやったはずなのに、手が震えてしまってうまくトリガーを掴めない。逃げないと。態勢を整え直さないと。思っているのに頭が真っ白になって、自分が何をしているのかがわからない。
早い。奇行種だ。やばい、間に合わない。
そう思った時に、誰かがオレの身体を思い切り引っ張って突き飛ばした。
「どけっ!」
「……兵長ッ!」
リヴァイさん。
同時にブレードを抜いたリヴァイさんが、オレを突き飛ばした反動でそのまま地面を蹴って、ガスをふかして一気に巨人の頭上まで飛ぶ。黒い瞳が光ったと思ったら、小さな身体は竜巻のようなものに変わり、一瞬にして巨人のうなじを抉り取った。
ばしゃっ、と赤くて熱い血がリヴァイさんの身体に降りかかり、巨人の身体が崩れ落ちる。
リヴァイさんは、大きな身体の上で、はあはあと泣きながら刃を外して、返り血で染まった顔を拭った。
高温の蒸気の中で涙を流しながら震える姿は、初めて見るものだった。とても綺麗だと思った。
「け……怪我ねえか、エレン……」
「は……はい……」
リヴァイさんが、ずずっ、と鼻を啜ってから巨人の身体から飛び降りる。地面に降りたと同時に、かくっと膝が折れて尻餅をついた。
「兵長っ」
叫んで、リヴァイさんの近くに走り寄る。
真っ白な顔をしたリヴァイさんは、オレの顔を見てからほっとした表情をしたあとに、背中を僅かに震わせた。
黒い目が大きくなって、座り込んだ足がぶるぶる震える。
「あ……」
「……兵長?」
不安に思ってしゃがみこむと、リヴァイさんは唇を噛んで座ったまま後退って、震える足をすり合わせた。
あ、と思ってしゃがみこんでいる場所を見る。
白い団服のズボンが、股間のあたりからびっしょりと濡れていた。
……漏らしてる。
突然の巨人の出現に、にびっくりしすぎたんだろう。オレと一緒だし、無意識に気が緩んだのかもしれない。
「う……」
じわっ、とリヴァイさんの目に涙が浮かぶ。
慌てて手を伸ばして、リヴァイさんのズボンのベルトに手を掛けた。
「だ……大丈夫です、リヴァイさん。オレの団服と取り替えましょう。早く着替え……」
がちゃがちゃとリヴァイさんのベルトと立体機動装置を外してから、自分のベルトにも手を掛ける。その時に、すぐ近くにから「兵長!」というペトラさんたちの声が聞こえた。
「兵長っ、エレン! 大丈夫ですか!」
リヴァイさんの顔が真っ青になって、ペトラさんたちの方を振り返る。オレは咄嗟にリヴァイさんの身体を抱えて、立体機動を使って空に飛んだ。
「エレンッ?」
ペトラさんの声を下に聞きながら、どうにかしないとと思って木の間をワイヤーを使って飛ぶ。リヴァイさんは涙で真っ赤になった目でオレのことを見上げて、素直に抱えられていた。
泣いてるのも、漏らしてんのも、他の人に見られたら絶対やばい。
誰もそれで兵長を軽蔑したりすることはないと思うけど、この人が今まで培ってきた、死ぬ気で踏ん張っていたプライドがへし折れる。本気で立てなくなって、そのまま小さくなって消えてしまうかもしれない。
飛んでるうちに近くに川が見えたので、リヴァイさんを胸のあたりに抱え直してそこめがけて突っ込んだ。
「すみません、目瞑っててくださいっ」
ばしゃんっ! と勢いよく水に入って、小さな頭を抱えた。
よかった、結構深かった。
考えなしに入水してしまったことにドキドキしながら、水の中でリヴァイさんの頬を両手で掴んで、少し腫れた目と目を合わせる。そのまま、すり、と頬を寄せると、リヴァイさんは目を瞑ってオレの手をぎゅっと握った。
「……ぷはっ!」
身体を抱えたまま、二人して水面に顔を出す。リヴァイさんは何がなんだか分からないような顔をしたまま、赤くなった目でオレを見た。
「……何のつもり……」
「これで、なんで濡れてるんだかわかんないですよ。リヴァイさん」
そう言って両頬を包んで笑うと、リヴァイさんは一瞬目を大きくして、そのあとに薄い唇を噛んで下を向いてしまった。
足がぎりぎりにつく所まで泳いでから、自分の髪の毛を後ろに流してぎゅっと絞る。リヴァイさんは、ぽたぽたと黒い髪から水滴を落としながら、オレの腰の辺りを掴んだ。
……ちょっと、めちゃくちゃすぎたかな……。
今さらながらに不安になりながら、リヴァイさんの濡れた頬を擦って水滴を払う。押し殺すような、小さな声が聞こえた。
「……エレン」
「は、はい」
「…………」
「……あの、すみません、やりすぎましたよね」
「……あんまり……」
「……はい?」
こつ、と胸のあたりに額が置かれる。肩のあたりで揺れる水面が小さく波打って音を立てた。
「……あんまり、俺を甘やかすな。俺は今まで意地で立ってきたみたいな部分があって……だから、こうやって、甘やかされると……」
語尾が小さく震えている。ああ、と思って、背中に手を回して、それを擦った。
「……こ……これ以上、情けなくなりたくねえ……」
鎖骨のあたりで、小さな頭と肩が震える。小さく嗚咽するリヴァイさんの背中を水の中で撫でながら、近くにある頭に自分の額を擦り付けた。
「情けないなんて思わないですよ。むしろ、こんなに苦手なものに毎回命かけて挑んでるあなたを、オレ本気で尊敬してます」
「…………」
リヴァイさんは俯いたままで、顔をあげてくれない。
情けなくなんてない。オレにとっては、むしろ結構うれしい。人類最強、と言われているリヴァイさんの、人間らしい部分があるってことがわかって。強さだけでななく、仲間を思う優しさや、自分の弱みと一生懸命向き合ってる姿だって、今までは知らなかった。
もっとたくさんのことを知りたいと思うし、きっとその度にオレはこの人のことが好きになる。
オレがこの人の力になれることなんて一生ないと思っていたから、今はこうして甘えてくれることがすごく嬉しい。
「あと……さっき助けてくれて、ありがとうございました。やっぱりリヴァイさんはかっこいいです」
「…………」
額に自分の額をつけて言うと、リヴァイさんは唇を噛んでからオレのシャツを引っ張って、それに顔を押し付けて静かに泣いた。