巨人の恋と優しい人

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「僕には、花一輪をさえ、ほどよく愛することができません。ほのかな匂いを愛めずるだけでは、とても、がまんができません。突風の如く手折たおって、掌にのせて、花びらむしって、それから、もみくちゃにして、たまらなくなって泣いて、唇のあいだに押し込んで、ぐしゃぐしゃに噛んで、吐き出して、下駄でもって踏みにじって、それから、自分で自分をもて余します。自分を殺したく思います。僕は、人間でないのかも知れない」
by 太宰治 『秋風記』 より



気がつくと、兵長はオレの身体の下で静かに気を失っていた。
引き締まった身体中に歯型がついていて、いくつも血が滲んでいた。中には、皮膚を、肉を、えぐり取ったような噛み痕もあった。
首には、強く締め付けたんだろう、指の痕が残っていた。ちょうど喉仏の真上だ。オレの親指と同じ大きさの痕が、外側は赤く、中は青黒くなっていた。
下半身なんて、ひどいものだった。精液と血の混じったピンク色のものが腹と内腿に散らばっていて、他にも、内腿に固まった血液がこびりついていた。
シーツはドロドロに汚れていた。最中の途中で失禁したんだと思う。マットレスまでじっとりと湿っていて、触れている場所が気持ち悪かった。
兵長は唇を半開きにしたまま、仰向けの格好のままで動かない。ふいに、首にくっきりと残っている自分の指の痕を見て怖くなった。

「……兵長」
恐る恐る手を伸ばして、ぴくりとも動かない身体に触れる。指先に感じる温かさにほっとして、身体を丸めて額を胸のあたりにつけた。
とくとくと静かに鳴る心臓の音が聞こえて、改めて胸を上下させた。
同時に、勝手に、涙が出てきた。
これで何度目だろう。
この人の身体をこんな風にしてしまうのは。
好きですと泣きながら告白して、抱かせてくださいとすがりついて、優しく受け止めてくれているこの人の身体を、こんなにめちゃくちゃにしてしまうのは。
いつも途中からおかしくなって、気づけば兵長はこの有様だ。
怪我だらけの身体に顔を当てて、静かにしくしくと涙を流した。
意識がなくなってる、わけじゃないんだ。
覚えてる。記憶はある。抱いている時は手当たり次第に噛み付いて、血を流させて、首を絞めて落として、何度も何度も貪るように求めて、それこそ兵長が泣いても、やめて欲しいと懇願しても、気を失っても、止めることができなくて。本能のままにしか動けない。
まるで、抱きながらこの人を喰うように。
(……オレは……)
自分で思って、背中が冷たくなった。

頭を押し付けている胸が少し動いて、けほっ、と喉が上下した。
慌てて上半身を起こして兵長の顔を見る。青ざめた顔の焦点は合っていない。それでも、兵長はひどく掠れた声でオレを呼んだ。
「……エレン……」
「兵長。すみません、オレ、また……」
「……水くれ……喉が焼けそうだ」
「……はい……」
ベッドを降りて、鼻を啜りながら部屋の隅の水道に向かう。歩いてみれば自分の足もがくがくして、おぼつかなかった。

「どうぞ」
「……飲ませろ」
「はい……」
水の入ったカップを薄い唇につけて、ゆっくりと傾ける。透明な冷たい水は小さな口から溢れて、青白い喉を流れて、まだ血の乾いていない胸の噛み跡まで伝った。
兵長の眉が少しだけしかめられる。カップを外して拭こうと思ったら、「まだだ」と言われたので、もう少しだけカップの傾きを上に上げた。
結局、兵長は汲んできた水を全部飲み干してから、もう一度ベッドに沈んだ。
焦点の合っていない目がぼんやりと天井を見ている。唇の端に血が滲んでいるのは、昨日堪えきれずに兵長が自分で噛み切ったものだ。
それを指で撫でてから、へいちょう、と小さく呼びかけた。
「兵長……」
「……なんだ」
「……愛って、なんですか」
「…………」
「人を愛するって、なんですか……」
片方の目だけから、勝手に涙が溢れてきた。
兵長の目が、ゆっくりとオレの方に向けられる。右目が腫れているのは、オレが何度も何度も噛み付いたから。兵長の味を知りたくて、なんでも口の中に入れたくて、舌で、唇で、歯で、その感触を知りたくて。
でも、そのせいで、いつもこの人は傷だらけだ。
愛って、一体なんなんだろう。
もっと、大切に、慈しむことが愛情なんじゃないのか。
「オレは……あなたを愛していないのかもしれません。大切にしたいと思っているのに、思えば思うほど、もっと知りたくなってしまうんです。我慢ができないんです。自分のものにしたくて、兵長の全部をオレにしたくて、そんなことをしたら、兵長は壊れてしまうのに、わかってるのに、オレは……」
「…………」
「いつか、オレはあなたを喰ってしまうかもしれない……」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、そう言った。

オレは、やっぱり巨人なんだろう。
自分の欲望のためにしか動けない。人を喰らうことでしか欲望を満たせない、哀れな怪物。
身体を合わせている時でさえ、この人の肉の味を想像してる。
オレは狂ってる。でも、泣きたいほどにこの人のことが好きなんだ。
「ごめんなさい」
嗚咽が止まらない。
いったい何が悲しいのかがわからない。ただ、つらい。自分は普通じゃないのかもしれない。そう思うと、オレに愛されているこの人がかわいそうで仕方がない。
咳き込みながら泣いているオレの背中に、ひやりと冷たいものが触れた。
それがゆっくりと上下に動いて、擦られる。兵長の手のひらだということがわかったのは、反対の手で顔をあげられた時だった。
「エレン」
掠れて、ひっくり返った声が聞こえた。
兵長は一度、げほっ、と咳き込んでから、ヒュー、と喉を鳴らしながら息を吸った。そうしてオレの目を見ながら小さく唇を動かした。
「それでいい」
冷たい手は頭に回り、ゆっくりと髪をかき混ぜる。感情の見えない銀色の瞳が、オレの目に合わせられる。
「愛ってのは、そういうもんだ」
「……喰いたいって、思うのがですか」
「ああ」
「こんなに、兵長のことを傷つけてるのに」
「傷は治るだろ……」
「嫌じゃないんですか。だって、痛いでしょう……」
「嫌じゃない」
「……うそですよ……」
「嘘はつかねえ」
首には、オレが抉り取ったような噛み跡から血が滲んでいる。
自分の頬に流れている涙を拭わずにその傷跡を舐めると、そこに顔を埋めやすいように、兵長は自分の顔と首の角度を少しずらした。
身体は強張らない。拒否をしていることもない。こんなに傷つけたオレのことを、全部を使って受け入れてくれている。
どうしてこの人は、こんなにオレに優しいんだろう。
自分でつけた傷を、今度は癒すようにゆっくり舐める。冷たい腕が後頭部に回って、慈しむように撫でられた。
「今はダメだけどな……全部片付いたら、別に喰ってくれたって構わねえよ」
「……喰ったら、兵長いなくなっちゃうじゃないですか」
「お前の中で生き続けんだよ。ロマンチックだろうが……」
「……でも、巨人は消化できないから、ひとつにはなれないですね」
「……ああ、そうだったな……」
頭を撫でている手がぴたりと止まって、今度は両頬に移動する。銀色の瞳がまっすぐに合わせられて、血のこびりついた唇が小さく動いた。
「そうしたら、食う時はその姿のままで喰ってくれ。……それならお前の肉になれる」
噛み痕のついた冷たい手が、頬を伝って髪の生え際を撫でる。銀色の瞳はオレと目を合わせていても、やっぱりどこか遠くを見ている気がした。

オレがおかしいのと同じように、もしかしたらこの人も狂っているのかもしれない。
そう思ったら、なんだか哀しくなって、その優しさに泣けてきた。


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