リヴァイさんは、締め切りが近くなると顔でわかる。もともと悪い顔色が更に悪くなって、目元のくまが深くなって、目が血走ってくる。
で、一切部屋から出てこなくなる。
この間のごみ出しの日にも見なかったから、きっと今は修羅場っていうやつなんだろう。
「リヴァイさん。オレです、エレンです。飯作ったんですけど、よかったら……」
そう、作った煮物を持ってインターフォンを鳴らすと、ギイ、と扉が空いて、ゾンビみたいな人が現れた。毎月のことなので、もう慣れた。
「飯食わないと、捗らないですよ」
「……エレン」
「はい」
「……消しゴムかけてくんねえか」
「わかりました!」
リヴァイさんは、アシスタントっていうらしいけど、お手伝いの人を極力使わない。
自分の原稿に手を入れられるのも、完成していない原稿を見られるのも嫌らしい。あと、単に他人を自分の部屋に入れるのが嫌だとも言っていた。
何度かさせてもらっている下書きの線を消す作業は、絵が描けないオレでも手伝えたし、楽しかった。
片手で食べられるようにご飯は握り飯にして、リヴァイさんの作業デスクに持っていく。リヴァイさんは大きなモニターから目を離さないまま、「消しゴム終わったら終わったらスキャンしといてくれ」とオレに言った。
リヴァイさんは、ペン入れまでは紙の原稿用紙とインクを使う。オレにはよくわからないけど、そっちの方が性に合うそうだ。
「わかりました」と言ってからリビングに戻って、丸くなった消しゴムで下書きの線を消していった。
細い線と、丁寧に描きこまれたキャラクターと背景。細やかな描写は、リヴァイさんの性格そのままだと思う。
一時間ほどで終わったその作業を、もう一度注意しながら消し忘れがないかを確かめる。最後に羽のついたブラシで原稿用紙をさっさっと払って、黒いプリンターにセットした。この後は、データになったものをリヴァイさんがパソコンで処理をしていく。
ここまでで、オレが手伝えることは終わりだ。
本当はべた塗りとかも出来たらいいんだけど、オレ美術は2だったし。変なことをするのも怖いし、リヴァイさんも頼んでこない。
スキャンし終わった原稿をとんとんとテーブルの上でまとめて、よし、と声を出して立ち上がった。
リヴァイさんは、どんなに忙しくても毎日風呂には絶対に入る。飯より風呂。しかも、シャワーじゃ嫌らしい。毎回風呂釜から洗って新しいお湯を張るものでなければ駄目だそうだ。
制服のズボンを折り曲げて、シャツをめくって、浴室の壁と風呂釜をごしごし洗う。
泡を流そうと水を出したらシャワーのままで、頭から盛大に冷水をかぶって悲鳴をあげた。
「冷てえっ」
慌てすぎてどう止めていいのかわからなくなって、水を止めた時には制服のシャツもズボンも、びしょびしょだった。そこからは、もういいやと思って濡れながら風呂場を洗った。
(前は、奥さんがしてたんだろうな。こういうこと)
ごしごしとバスタブを洗いながら、ふうっと小さく息を吐く。
……なんで別れたのかな。忙しかったとか。まあでも、リヴァイさん売れっ子だもんなあ。サポートするのも大変だろうな。締め切り前とか機嫌悪くなるし。
でもだからこそ、リヴァイさんも一人じゃ色々大変そうだ。
ぴかぴかになった風呂釜にお湯を張りながら、濡れた制服を絞ってそう思った。
風呂場から出ても、リヴァイさんはまだ部屋から出てきていなかった。
部屋の扉は開いていて、そこから薄暗いテーブルライトの明かりだけが漏れている。濡れた髪の毛を気にしながら部屋を覗いて、一応コンコンと叩いてから中に入った。
リヴァイさんは、机の上に突っ伏して眠っていた。
……寝てる。終わったのかな。
パソコンの電源は切られていて、ベタまで入った原稿が綺麗に机の端に置かれてある。このまま寝かせておいた方がいいかどうか迷ってから、そっと肩に触れて少し揺すった。リヴァイさんはいつも、結局変な時間に起きてでもお風呂には入るからだ。
「リヴァイさん」
「……ん?」
「リヴァイさん、風呂、沸きました」
「……ああ、悪い」
「終わったんですか?」
「あと……最後の確認だけだ……終わったら入る」
パソコン用のメガネを掛けたままだったらしく、リヴァイさんがごしごし目をこする。そうしてオレの方を向いてから、不思議そうに眉を顰めた。
「……なんでびしょ濡れなんだ。お前」
「あ、風呂洗ってたら間違えてシャワーかぶっちゃって……オレもあとで着替えてきます」
「向こうに俺のシャツが……」
「リヴァイさんのシャツじゃちょっと小さくて」
「……ぶっ飛ばすぞ」
「すいません」
パチンと腕の辺りを叩かれて、少し笑ってから「頑張ってください」と言って部屋を出る。オレも一度部屋に戻ってシャワー浴びよう、と音を立てないように玄関の扉を開けて外に出た。
一時間半後、「終わった……」とふらふらしながら部屋から出てきたリヴァイさんに、オレは見ていたテレビを消して「おつかれさまでした」と言って駆け寄った。
「……お前も風呂入ったのか」
「あ、はい。さっき自分の部屋で」
「入浴剤くれ……ゆずのやつ」
「いれておきました」
にこにこしながら、タオルも一緒に差し出す。リヴァイさんの眉がぴくっと動いたのを見て、すぐに、あっと思って口に手をやった。
「……あの、もしかして、ぶくぶくしたかったですか? すみません」
炭酸のガスが出る入浴剤は面白い。もしやリヴァイさんもあれをやりたかったのでは。
しまった、と思っていると、リヴァイさんはほんの少しの沈黙の後に、「……いや」と言って、オレの頭をぐしゃぐしゃとかきまぜた。
「……?」
「明日、アイスでも買ってやる」
「え? ……? あ、ありがとうございます」
まだ濡れたままの頭を押さえて、風呂場に行くリヴァイさんを見送ってから、もう一度ソファに座ってテレビをつけた。
リヴァイさんの家に入り浸っている理由はいくつかあって、一番はリヴァイさんと一緒にいることが楽しいこと……それが結構大きな割合を占めているんだけど、他にも、オレの部屋にテレビがないっていうことも少しあった。
実家にいた時は、いつも父さんとミカサの声が聞こえていたけど、独り暮らしの部屋ってものすごく静かで、結構寂しい。人の気配はないし、音楽をかけていても何となく落ち付かない。まだテレビの方が人の話し声がする分いい。それに、リヴァイさんは仕事柄だいたい家にいるし、こうして一人でいてもどこかしらに気配が感じられる。
仕事の邪魔だ、と言われたことはあるけど、帰れ、と言われたことはまだない。
(……結局オレに、まだ独り暮らしは早かったんだろうなあ……)
そう思いながら、ソファの上で体操座りをして自分の膝の上に頭を乗せた。
時間はそろそろ二時になる。こんな時間まで起きてたの、久しぶりだ。明日学校が休みでよかった。もっとも、休みの前の日じゃないと、リヴァイさんもこんな時間までは居させてくれないけど。
うとうととソファの上でまどろんでいたら、ほかほかと湯気を立てたリヴァイさんがガチャンとリビングに入ってきた。
「……なんだ? 眠いのか」
「……はっ……お、おつかれさまです……早くないですか」
「まだやること思い出してな……今何時だ」
リヴァイさんが、眉を顰めて時計を見る。そのあとに、はー、と息を吐いて濡れた髪をかきあげた。
「もう二時じゃねえか……気付かなかった。悪かったな、付き合わせて。戻っていいぞ」
「大丈夫です、オレ眠くないです」
「いや寝てただろ、今……」
「まだ戻りたくないんです」
オレの言葉にリヴァイさんは何と思ったのか、ちらりと視線を寄越しただけで、それ以上は言葉を続けなかった。
冷蔵庫の中からビールを出して、かしゅっと開ける。そのまま口をつけて飲む姿に、やっぱり大人だなあ、と当たり前で妙なことを思いながら、ソファで組んでいた体操座りを解いた。
「リヴァイさん。オレ、乾かしてあげます。髪の毛」
「…………」
「どうぞ」
はい、と自分の足を開いて、そこにリヴァイさんの座るスペースを作る。リヴァイさんは何も言わずに、素直にオレの前に座って、オレを椅子にするみたいに寄りかかった。
リヴァイさんの身体は小さい。
年齢は倍くらい違うけど、あんまりオレと大差ない。顔も頭も小さい。乾いたタオルで濡れた髪の毛を包んで、ごしごし擦った。
ドライヤーをセットして、ブオー、と髪の毛を乾かしていく。くせのないさらさらの髪の毛が、風になびいてふわふわ揺れた。
「オレの家、猫がいるんです。黒い猫で、リヴァイさんにちょっと似てます」
「オレは猫じゃねえぞ」
「似てるってだけですよ」
「お前は犬みてえだけどな……飼ったことねえが」
オレに髪の毛を乾かされながら、リヴァイさんがテーブルの上にあるノートとペンを取る。
「絵を描くんですか?」と尋ねたら、「プロットだ」という答えが返ってきた。
「あらすじ作りみたいなもんだ」
「へえ……」
なんかすげえなあ、と思いながら、ドライヤーを動かしつつリヴァイさんの手元を後ろから見る。真っ白なノートに、綺麗な字で、話の流れと台詞がさらさらとノートに書かれていく。セリフは……ほとんどが喘ぎ声というか、いやらしい言葉ばかりだったけど。
嫌でも後ろから見えてしまうそれに少し赤面して、あの、と言って顔を伏せた。
「……描いてるうちに、本当にドキドキしたりしないんですか」
「……ああ?」
「だって、そんなエッチな話」
「……こないだも言ってたな、お前は……自分で考えて自分で描いた話に、興奮するわけねえだろ」
「そんなもんですか」
「そんなもんだ」
オレの方は振り向かず、リヴァイさんは思いつくままにエッチな言葉を綴っていく。
オレが漫画の中でしか知らない、大人のいやらしい世界のこと。十八歳未満禁止のいけないこと。
大人になると、みんなこういうことをするようになるんだろうか。
恥ずかしいことじゃなくなるんだろうか。
「……オレは、リヴァイさんの漫画読んで、興奮しますよ」
「……そりゃどうも」
「これって、体験談とかもあるんですか」
「……んなわけねえだろ。妄想だ」
「妄想?」
「自分がこういうことしたいとか、されてみたいとかだな……」
リヴァイさんが、唇に鉛筆をつけてそう続ける。さらさらした髪はもうほとんど乾いてる。ドライヤーを止めて、コトンとソファの傍の床に置いた。
「じゃ……じゃあ、リヴァイさんは、こういうことしてみたいって思ってるってことですか」
「…………」
「この漫画の主人公みたいに」
「…………」
テレビをつけていればよかったと思った。ドライヤーの音がないと、部屋はひどく静かに感じる。心臓がドキドキして、唇が乾く。それを舐めてから、「あの」と小さな声で言葉を続けた。
「……リヴァイさんは、どうして前の奥さんと別れたんですか」
「……聞いてどうする」
「……わかりません」
リヴァイさんが、ゆっくりとオレの方に顔を向ける。光の加減で銀色にも見える黒い瞳が、オレにかちりと合わされた。
どうしてだろう。距離が近く感じる。オレが近づいているのか、それともリヴァイさんが近づいてきてるのか。息が頬にかかる。薄い唇が開いて、オレの顔のすぐ近くでかすかに動いた。
「……俺が、女を抱けなくなったからだ」
リヴァイさんが近い位置でまっすぐにオレの目を見て、小さな声でそう言った。
どういう意味なのかは、あまりよく分からなかった。でも、この人の持つ雰囲気にどうしてだか背中がぞくぞくした。
「……もういいだろ。髪乾いたか」
「……あ、はい」
「俺は寝る。お前も自分の家戻れ」
リヴァイさんが息を吐いて、座っていた体勢から身体を起こす。ドライヤーのコードを巻きとる後ろ姿に、少し戸惑いながら声を掛けた。
「あの……ここで寝ていったらだめですか。ソファでいいんで……」
「…………」
どうしてそんなことを言ってしまったのかは分からない。なんだか、このまま帰りたくなかった。一人になるのも嫌だったけど、まだこの人と一緒にいたかった。
リヴァイさんはオレの目と目を合わせながら少しの間黙って、それからふっと目を反らして首を振った。
「……だめだ。自分の部屋で寝ろ」
「……わかりました……」
「クソして寝ろよ」
「……はい」
しゅん、としながら玄関に向かって、靴を履く。
見送ってくれるリヴァイさんに、おやすみなさい、と言って、リヴァイさんの家のドアを締めてから息を吐いた。
(……なんか、変だな。オレ。なんだろう)
少し顔が熱くなっているのを感じながら、自分の顔を片手で擦った。
渡り廊下から見える暗い空には、少し欠けた月が見えた。真っ黒でどこまでも深い夜空の色は、なんだかあの人の目に似ていると思った。
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