「兵長」
「なんだ」
「あの」
「なんだ」
「あの……」
「……なんだ」
……くそうぜえ。
報告書から目を離さずに声だけで答えていたら、聞こえてくる男の声はみるみるうちにしぼんでいった。
用事があるからと言われたから部屋に入れたのに、さっきからずっとこの調子だ。一体なんだ。よっぽど言いにくい失敗でもしたか。
資料を一枚捲って、息を吐く。
自分から言い出すまでは待ってやろうとは思っていたが……もうそろそろ限界だ。立ち上がって舌打ちすると、エレンはようやく決意したように声を張り上げた。
「あ、あの、あのっ!」
「さっきからなんだ! 俺の名前はあのじゃねえんだよ! 用件を言え! 簡潔に!」
「だ、だっだ、抱かせてください!」
「……ああっ?」
勢いあまって机に叩きつけた資料が、はらりと一枚床に落ちた。
……なんだって?
思わず眉間に皺が寄る。完全に威嚇状態の俺と、怯えた仔犬のようになってるエレン。
今のこの状況に、ものすごく不釣り合いな言葉が聞こえたんだが。
一度立ちあがってしまった姿勢をどう引っ込めようかと思っていた時に、エレンの消え去りそうな言葉が、再度小さな部屋に響いた。
「……抱かせてください……」
耳まで真っ赤にした小型犬みたいな巨人の男は、そう言ってぶるぶると震えていた。
※
――最初に思ったのは、何だこいつ、トチ狂ってんじゃねえのか、だった。
慣れない生活で精神に異常をきたしたか。
もともとこんな世の中だ。そういうこともあるだろう。訓練生上がりの奴らはまだ若い。兵士同士でそういう仲になる奴もいるし、野郎同士でもあるとは聞く。
性欲処理、と言えば聞こえは悪いが、お互いが必要とし、合意の上ならば咎めることもないと思っている。
ただ、……俺か? なぜだ。
どうしてそういうことになったんだ。こいつの頭の中で。
椅子に腰掛けながら、小刻みに奮えるエレンの顔を見る。顔が赤くなったり青くなったりしている。ものすごい忙しそうだ。
「どういうことだ?」と頬杖をついたままで尋ねると、エレンは一度喉を鳴らしてから口を開いた。
「言葉の通りです」
「なぜ俺を?」
「ひ……人は、そういう行為をするものだと知りました。自分の……その、好きな相手と」
「……好きな相手?」
「すっ、すみません!」
頭がもげるんじゃないかと思うくらいの勢いで、エレンが腰を九十度に曲げる。
そのままぴたっと止まったままの姿勢でいる部下の前で、俺は静かに混乱した。
俺が好きだと?
頭の中に「?」が飛び交った。これは、もしや愛の告白か。
下官に好意を持たれるのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。部下から慕われるのは上官としての誉れでもある。
しかし、――告白か。わからねえ。上官に?
舐められてるのか? それとも、こいつが本当にイカれたのか。
「……エレンよ」
「……だ……だめですか」
「だめというかだな」
「だめですよね……兵長、もてそうですもんね。オレなんて……」
……もてそう? 俺が?
頭の中の「?」マークが更に増えた。ついでに、「!」というマークも加わった。
どこをどうしたら、俺がもてそうに見えるんだ。この目つきの悪い三白眼と低い身長、効率と手入れの楽さしか考えていない刈り上げの髪型、過度の潔癖症、三十路、自慢じゃないが、もてる要素など一つもないと自負している。自覚もある。そんなものは、はなから期待したこともない。
「尊敬しています」や「憧れです」という賛辞はよくもらう。――だが、「もてそう」。生まれて初めてもらった世辞だ。
「……巨人にか?」
「えっ?」
「まあ、巨人にもてるんなら悪くねえな……奴らみんなが俺の所に来てくれりゃあ、わざわざ遠征せずに削ぎ落としてやれるのに」
「や……やっぱり、オレも削がれるんですか」
「……あ?」
「でも、へ、兵長を抱かせてもらえるなら、オレ削がれても……」
「さっきから何を言ってるんだ、お前は」
「オレ、兵長が好きなんです」
「会話が成り立ってねえんだよ」
心なしか縮まっている距離に眉を顰めて、組んでいる足を組み替えた。
犬だったら、ハウスと言ってやりたい。
つまり、なんだ。こいつは俺にそういう欲求を含めて惚れている、と、そう言いたいんだろか。
頭が痛え。
とんとんと指で机を叩きながら、わざと聞こえるように溜息をついて、「エレン」とゆっくりと顔を上げた。
「いいか、落ちつけよ。お前はいわゆる大人の階段ってやつを昇り始めたんだ。俺はもう覚えちゃいねえが、とにかくなんでもヤりたいヤりたいの盛りの筈だ。それを、俺への妙な感情へと繋げるな。勘違いするなよ」
「か、勘違いなんかじゃありません!」
「いいや、勘違いだ。でなければ、一時の気の迷いだ。若い兵士にはよくある。まして、お前はまだ十五歳だ。一度自分と話し合え」
「散々悩んで出した結果です。兵長が好きなんです、本当です! お願いです、抱かせてください」
「おい。俺は自慢じゃねえが、人から愛の告白をされたことなんて生まれてこの方一度もねえんだ。それが思春期のお前の一時の勘違いの過ちで、更にお前と一線交えた後にそれに気がつかれてみろ。傷つくだろうが、俺が!」
「傷つけません!」
「どうして言える!」
「オレが兵長のことが好きだからです!」
「俺のこの顔を見てもう一度言ってみろ! ああ?」
「兵長が好きです!」
互いの間に、火花のようなものがバチッと散る。流石巨人だ。キレ顔が俺に負けてねえ。
共にヒートアップしていく声に、一度俺が落ちつこうと再度椅子に腰掛けた。
「エレンよ。お前は男ってもんがわかってない。自分で抜いたことはあるか? 終わった後のあの虚しさは知っているか? 世間では賢者の時間と言うらしいが、あの時に隣に半眼を開けて眠っている俺がいると考えろ。お前よりも十五も離れた三十路の男だ」
「へ……兵長、寝るとき半眼なんですか」
「ハンジに言われた。勘違いするなよ、自然に開いちまうらしい。どうだ、一気に萎えるだろ。わかったらとっとと部屋に戻れ」
「オレ、もう何度も兵長で抜いてます。終わったあとも、ずっと兵長を想って寝ています。半眼で寝てる兵長も見たいです。きっともっと好きになります」
「どうだかな。俺も男だからわかるが、あの時は人間の本性が出る。ハンジは未だに俺の半眼の眼球運動をネタに強請る。俺は部下に軽蔑されたくもなければ、したくもねえ」
「……だめですか、やっぱり」
「悪く思うな」
そう言ってから、読みかけになっている報告書と資料に再度目を落とした。
視界の端に、下を向いて項垂れているエレンの姿が見える。エレンはしばらく無言のままで、ぐすっ、と小さく鼻を啜った。
……おい。泣くな。俺が悪いことしたみてえじゃねえか。
声をかけようかと顔を上げた時に、同じように顔を上げたエレンの翠色の瞳と目が合った。
「ありがとうございました。後悔したくないと思って……壁の外に出た時に……でも、変なこと言ってすみませんでした。聞いてもらってすっきりしました」
そう言って、エレンはぺこんと頭を下げた。
いつも犬のように後ろで振られている尻尾とぴんと立った耳が、力なく垂れているように見える。
壁の外。
思ってもみなかった言葉が、心臓にずしっと重しを乗せた。涙を堪えて不細工に笑おうとする顔が、更にその重さを増幅させた。
「じゃあオレ、戻ります」
「……待て」
敬礼をしてから踵を返そうとする部下に、低い声で言って振り返らせる。
エレンはすぐにこちらを向いて、少し赤くなった瞳を俺に合わせた。
「……夕飯が終わったら、部屋に来い」
資料を閉じて、そう伝える。途端、エレンの萎れていた耳と尻尾がぴんっと跳ねて、でかい目がみるみるうちに丸くなった。
「い……いいんですかっ?」
「ああ」
「本当ですね!」
「ああ」
「やった……あっ、あの、オレ、皮剥けるくらいに洗っていきます!」
「……剥けてねえのか」
「……あっ、あ、いえっ、あの」
「……中までしっかり磨いてこいよ。汚えもん見せるつもりなら削ぐからな」
「は……はいっ! 失礼します!」
右手を胸に置いて敬礼したあとに、エレンは再度頭を下げて出ていった。
ドタンバタンという騒がしい音がだんだん遠くになっていく。規格外の奴だ。どこまでも。
読んでいるふりをしているだけでちっとも頭に入っていない資料を机に置いて、眉間を揉んでから息を吐いた。
どうせ、あいつだってこんな男の裸を見た時点で気付くだろう。その時点で諭してもいいし、全部を経験してみたいっつうんなら、それでも構わない。
『後悔したくないと思って……壁の外に出た時に』
ーーそれであいつがまた強くなれるんなら、こんな身体、いつだって貸してやる。
(……ところで、男同士ってどうやってヤるんだ? まあいいか)
あいつの好きなようにさせてたら、多分そのうち飽きるだろう。
そう思いながら資料を置いて、茶でも淹れようと椅子を立った。
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